バスの時間は9時40分なので、まだ30分以上も時間がある。
バスを待っていると、初老の男性が話しかけてきた。
熊野古道を一緒に歩きながら、その歴史や自然についてガイドしてくれる人を「語り部」と言う。その男性は語り部としての練習のため、駐車場にやってくる観光客に声をかけては、無料でガイドをしているとのことである。
目当ての観光客がなかなかやってこないので、自然と私達に対して熊野の歴史などを色々と語ってくれることになる。
歩く時は自分達だけでゆっくりとしたいので、たとえ無料であっても、ガイドの申し出は断っていただろう。
でも今はバス待ちの暇な時間で、とても面白いその語りをたっぷりと聞かせてもらえて有難かった。
男性と別れて、バスに乗り那智駅へ。
この那智駅の直ぐ近くにも、世界遺産に指定されている補陀洛山寺があるけれど、電車への乗り継ぎ時間が僅かしかないので、諦めることにした。
何しろ、この電車に乗れなければ、次の電車が来るのは3時間後になってしまうのだ。
旅行の際の手軽な移動の手段としては、JRはもう使えなくなっているのかもしれない。(後で知ったのだけれど、那智駅から新宮へは熊野交通のバスが30分間隔で走っていたらしい)
電車の中では子供みたいに窓にへばり付いて、熊野の海を楽しむ。
新宮駅を降りると、例の怪我をした外人女性が腕や頭に白い包帯を巻いているものの、元気そうな足取りで観光案内所に入っていく姿を見かけた。
多分、那智勝浦から同じ電車に乗って来たのだろう。
私達がコインロッカーに荷物を預けている間に、見えなくなってしまい、最後に声をかけられなかったのが残念だった。
午後の川舟に乗るまでたっぷりと時間があるので、観光地図を手に入れて、簡単に行けそうな新宮城跡(丹鶴城公園)まで歩いてみることにする。
昨日の熊野古道を歩き終える部分までは完璧な旅程を作り上げていたのに、そこに力が入りすぎて、今日から明日の旅行最終日については、川舟に乗る以外の観光は全く考えていなかったのである。
それにしても25度を越えるような今日の暑さには参ってしまった。
古道歩きの時にこれだけ気温が上がっていたら、途中でリタイアしていたかもしれない。
私達は半袖姿で汗を拭きながら歩いているのに、地元の人達は長袖の服を着て平然と歩いているのが信じられない。
新宮城址は城の石垣が残っているだけだったけれど、その上まで登ると熊野川の姿を一望できる。
一昨日は、小雲取越を登り始めた時に見えるはずだったその姿にようやく出会えて、感動さえ覚えてしまった。
そこへ一人の男性が近づいてきて、新宮市の置かれた現在の状況について色々と聞かせてくれた。
その男性の話では、今日の熊野川の水は、上流のダムの放水によってかなり濁っているそうである。
どうも今日は、頼みもしないのに親切な観光案内をしてくれる方が次々に現れる日みたいだ。
そこから駅へ戻る途中、古式手打ちうどんの看板に惹かれて、「まさ家」と言う店で昼食にした。
たまたま見つけて入った店にしては、とっても美味しいうどん屋で、ちょっと得した気分である。
昼食を済ませ、駅前から川舟センターの無料送迎バスに乗って、スタート地点へと向かう。
そのバスに乗っているのは私達二人だけだった。
予約を入れる時、この日だけは残りが少ないことを示す△マークになっていたので、多分団体客が現地で待っているのだろうと思っていた。
しかし、現地に着いてもやっぱり私達二人の姿しかないみたいだ。
聞いてみると、この日は午前中にオーストラリアの団体客が入ったけれど、午後からの予約は私だけとのことである。
それにしても、古道で出合ったフランス人、同宿だったスペイン人、川舟のオーストラリア人と、さすがに世界遺産の熊野古道だと感心してしまう。
路線バスに乗ってくる飛込みの客がいるかもしれないと、出発時間まで少し待たされる。
その間に出してくれたミカンが、形と色は悪いものの、とっても美味しくてビックリしてしまう。
ミカン産地の地元の人達は、何時もこんなミカンばかり食べているのだろう。
結局路線バスには誰も乗っていなくて、私達二人だけでの川舟下りとなった。
ライフジャケットを付け、ヘルメットならぬ三角の編み笠をかぶる。
この編み笠をかぶって熊野古道を歩きたかったので、ここでようやくその願いが適って嬉しかった。
この川舟下り、舟一艘に船頭さんと語り部さんが付くらしい。
私達二人だけのためにスタッフ二人同乗なんて、なんて贅沢なツアーなんだろうと思ってしまう。
これがカナディアンカヌーならば、二人別々の舟で、それぞれにスターンマンが乗り込んでのツアーと一緒である。
語り部さんの目の前の席に二人仲良く並んで腰掛け、いよいよ熊野川下りの始まりがスタートした。
本来の熊野詣は、熊野本宮大社からは舟に乗って新宮の速玉大社に詣で、新宮から那智大社に向かって、そこから大雲、小雲を越えて熊野本宮に戻るのが一般的だったらしい。
現在は、ダムができたために水量が減って熊野本宮から下り始めることはできなくなったとのことである。
カナディアンカヌーさえあれば、その同じルートを辿れるのだけれど、今回は川舟で我慢するしかないのだ。
最初に「今日は残念ながらダムの放水で水が濁っています」と断られたけれど、流れの先には山が折り重なる憧れの熊野川らしい風景が広がり、水の汚れなど全く気にならない。
何せ北海道では、もっと濁った水の激流の中を体一つで流されてきたばかりなのである。
語り部さんの話もとっても面白い。
時々おやじギャグも入れてくるものだから、かみさんが「笑うタイミングを外したら悪いから」と、「そのギャグを聞き漏らさないように一生懸命聞いているのに疲れた」と言っていたのは後の話しである。
それにしても、北海道の川とは周りの風景、川原の様子、何から何まで全く雰囲気が違っている。
そんな様子を見ていると、ますますカナディアンで下りたくなってきてしまう。
でも、景色が単調なところはエンジン全開猛スピードで下れるのが川舟の良いところである。
前方で、驚いた水鳥達が一斉に川面から飛び立った。カワウの群れである。
そこに、川岸で羽を休めていたアオサギも加わって、カワウとアオサギが乱れ飛ぶ珍しい光景が目の前に繰り広げられる。
語り部さんもカメラで撮りたかったと言ってたけれど、残念ながら私のカメラにその貴重なシーンは写ってはいなかった。
|