しかし、本当の難所はその先に待ち構えていたのである。
5年前にここを歩いた時の記憶では、その先にも足を踏み外すと海まで転がり落ちそうな道があった筈だ。
歩く時はちょっと冷や冷やするけれど、その代わりに素晴らしい絶景を楽しめた気がする。
その記憶にあった場所がなかなか現れないのだ。
道は逆に藪の中へと入っていき、展望は全く効かない。
それどころか、両側から笹が覆いかぶさり、自分の足元さえ見えないくらいだ。
おまけに雨が降っているものだから、まるで洗車機の中で体を洗われている気分である。
5年前にこんな場所を歩いた記憶は無かった。
コースが変わったのか、それとも笹が伸びただけなのか。
家に帰ってからGPSのログで確認したところ、部分的にルートが変わった場所はあったものの、大きくは変わってはいなかった。
やっぱり笹が伸びただけなのである。
途中の谷で少しだけ展望が開けた以外は、延々と2時間近くの藪こぎが続いた。
礼文島の8時間コースと言えば、トレッカーには憧れのトレイルでもあるはずだ。
それがこんな廃道の様な状態になっていて良いんだろうかと疑問に感じてしまう。
もしかしたら、8時間コースを歩く人がそれ程減ってしまたという事なのかもしれない。
樹木に囲まれているので風は遮られるが、そのおかげで逆に蒸し暑く、雨具を着ていることもあって体が汗で濡れてくる。
それとも、さすがのゴアテックスの雨具でも、こんな洗車機状態の中を歩くと水を透してしまって、それで体が濡れているのだろうか。
おまけに靴の中にも少しずつ水が浸み込んできていた。
屋久島で、下着までずぶ濡れになって歩いた時のことを思い出してしまう。
2時間の藪こぎを終え、9時30分召国への分岐へ到着。
昨日までは、標準のコースタイムよりかなり早く歩けていたけれど、さすがにここでは藪こぎもあって、ほぼコースタイムと同じ時間がかかってしまった。
樹林帯を抜けると、風がまともに吹き付けてくるようになる。
それでも予想していたほどの風の強さではなかった。
ガスがかかって展望も全く効かない。
花も咲いていないし、ここではただひたすら歩き続けるしかない。
こんな天気の中、今日、礼文島のトレッキングコースを歩いているのは、多分私達だけだろうと言う気がしてきた。
靴の中、雨具の中もかなり濡れてしまっていた。
そこに容赦なく襲いかかる雨と風。
数年前のトムラウシでの遭難事故も、多分こんな状況だったのだろう。
勿論、風や雨はこことは比べ物にならないくらいに酷かったのだろうが、その時の状況は十分に想像がつく。
ザックカバーを付けていても、雨風がひどければ、ザックの中まで濡れてしまう。
屋久島を歩いた時はザックの中の荷物も防水対策をしていたが、普段の縦走ではそこまでの準備はしてない。
ダウンの上着を持っていても、濡れてしまっては役に立たない。
ここで今、テントを張ってビバークしようとしても、テントの中をドライに保つのは困難だろう。
遭難した人たちのことを簡単に批判することはできない。
そんなことを考えながら、黙々と歩き続けた。
ガスに霞んで西上泊の集落が見えてきた。
5年前に8時間コースを歩いた時、そこで食べた蕎麦が感動的に美味しかったことを覚えている。
ようやく携帯が繋がるようになったので、久種湖畔キャンプ場に電話をかけてみる。
雨はまだ止みそうにないし、この状況でテント泊をする気にはならないので、バンガローに泊れるかどうかを確認したのだ。
そしてバンガローが空いていると聞いた時は本当に嬉しかった。
そうなれば、真っすぐにキャンプ場を目指すだけである。
当初の目的地がスコトン岬だったことなど、とっくに忘れ去っていた。
5年前に食べた蕎麦が本当に美味しい蕎麦だったのかを確認してみたい気持ちはあったが、今はキャンプ場まで最短ルートで向かうのが優先である。
5年前に歩いた時の8時間コースは、スコトン岬がスタートで礼文林道までだったはずだ。
それが現在は、浜中がスタートに変わり、西上泊は8時間コースからは外れているのだ。
スコトン岬からゴロタ岬、澄海岬を通り、西上泊までのコースは、現在は「岬めぐりコース」の一部となっている。
そして岬巡りコースは、西上泊からはゴールの浜中まで車道を歩くことになる。
スコトン岬から礼文林道までを8時間で歩くのは、実質的に不可能なので、8時間コースのルートが変更になったのは妥当なところだろう。
ただ、現在の8時間コースならば、今回歩いた印象では、敢えて歩く価値も無いのかなと感じてしまった。
5年前はカラフトゲンゲが美しく咲いていた場所も、今は植生保護のため立ち入り禁止になっていたし、そして2時間の藪こぎである。
礼文島を北から南まで縦走したという勲章が欲しい人以外は、大した楽しみの無いコースなのである。
10時15分、ようやく車の走る道路まで出てきた。
そこから浜中まで下って行く途中に、礼文アツモリソウの群生地があるが、花期の終わった今は閉鎖されていた。
そうして浜中まで降りてきたところでバス停の小屋があったので、その中で一休みをする。
野営地を後にしてからここまで4時間近く、ずーっと歩きっぱなしだった。
ザックを降ろして近くの公衆トイレまで歩いていく時、背中の重しが無くなったので何だか体が浮き上がりそうな感覚がした。
本来の8時間コースはここが終点だけれど、キャンプ場まで後1.5キロ歩かなければならない。
これまで歩いてきた道のりを考えれば、町の中のそんな距離は全く苦にならない。
そうして11時過ぎ、久種湖畔キャンプ場に到着。
場内には5、6張りのテントが張られていたが、それらのテントのキャンパーは多分、昨日の午後からずーっとここで停滞しているのだろう。
バンガローの中は広くて気持ちが良かった。
ただ、濡れたものを干す場所が無いので、そこらにロープを張り巡らして、着ていたものを全部かける。
昼食はバンガローの中で棒ラーメンを食べた。
嬉しいことにキャンプ場には洗濯機と乾燥機があるので、着るものに予備がまだあったけれど、せっかくなので利用する。
靴は簡単には乾かないので、新聞紙を中に入れて水分を吸わせる。
午後3時近くになってようやく雨も上がったので、町まで買い物に出かけ冷えたビールを買ってくる。
何時もの金麦だったが、これほど金麦が美味しく感じたのは初めてだった。
多分、5年前に8時間コースの途中で食べた蕎麦が過去に食べた蕎麦の中で一番美味しかったのと、同じ理由なのだろう。
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